キリエのうた

観てきました。って七尾旅人の使い方ー笑。いや何でしょうこの映画、震災について扱った作品ではありますし、そこに絡めとられた人たちの話ではあるのですが、ところどころ岩井俊二監督の俳優を使った渾身のギャグが披露されてて可笑しくてしゃあなかったです。七尾旅人さんは有名なシンガソングライターで素敵な曲をたくさん歌われてますが、今回『キリエのうた』では職業不詳のストリートミュージシャンを演られてまして、小さい頃のルカと一緒に歌い、その後警察から職質され、挙句羽交い絞めになってました。いやあの髭とかよれよれのジーパンとかハットとか普段の七尾旅人さんっぽいのに撮り方次第でこうも絶妙に「怪しい人」になるとは。監督ったら冗談ばっかしー。他にも松村北斗のお父さん役が樋口真嗣監督だったりして、登場したら開口一番に「幽霊怖い」ってなんですかそりゃ。あと粗品。いきなりキーボード取り出してピンネタでも始めるんかと思ったぞ。なんかもうお話はお話として感想を書きますが、それよりまず明らかに「俳優で笑わせよう」という岩井俊二監督のお笑い成分が見え隠れしてそこが可笑しかったです。

さて、お話についてですが、2011年の東日本大震災を起点として、そこから時間も場所も移り変わりながら少しずつ登場人物たちの繋がりを描いていきます。全編歌がひしめき合っており、あいみょんマリーゴールド』、米津玄師『Lemon』、優里『ドライフラワー』などなど、2010年代を代表するポピュラーソングの他、オフコース『さよなら』、久保田早紀『異邦人』、由紀さおり『夜明けのスキャット』など懐かしい名曲も多数歌われ、「歌うこと」が作品の中心的な位置に来ています。それは主演のアイナ・ジ・エンドの起用がそもそも歌というものの発する力を描こうとしていることを意味しており、彼女の泣きぬれたような歌声がこの作品の色合いを決定づけていました。

この映画で描こうとしていることはある意味とてもわかりやすく、というか台詞で言ってるのですが、

「祈り」についての物語です。

そもそも「キリエ」とは、キリスト教のミサ通常式文『憐れみの賛歌』で主に憐れみを求める祈りのことを指し、ギリシア語で「主よ」を意味します。

2011年の東日本大震災によって喪われた命に思いを馳せ、喪失感を抱えながらどこにもたどり着くことが出来ず彷徨い続ける魂の物語。

だからこれは「彷徨う人たち」の話なのだろう。東京、大阪、帯広、石巻、各地を舞台とし、震災以降の12年間を映しながら、人々が交錯し、時に重なり、欠けた何かを求め続ける。この映画は安易なハッピーエンドを用意しておらず、ほとんどの登場人物はどこか適当なタイミングで姿を消す。個々に抱えた悩みとか心のしこりなんかはあるけど劇中においてそこのフォローをいちいちすることは無い。だって風見も夏彦も逸子もどこか中途半端なところで退場する。映画は二人の女子高生が雪の中で戯れるシーンから始まり、同様のシーンに帰ってくることで幕を閉じる。

始まりも終わりも無いのだ。

震災が起き、12年が経った。それが意味するところは今もなお彷徨っている誰かがいるということで、だからこの映画は終着点を描かない。

でも正直、人生が折り重なることで重層的にキリエという存在を浮かび上がらせ、いなくなった人に思いを馳せることで哀しみの先の方へと目線を向けさせる、という物語の意図は理解できるものの、こんなにまで長い上映時間にする必要があったのかな、とは思う。

岩井俊二の作品は『リップヴァンウィンクルの花嫁』あたりからテーマが「生きづらさ」とか「彷徨うこと」という重苦しい方向にシフトしており、それは間違いなく震災が影響してのことだろう。そして今作『キリエのうた』では過去作のエッセンスもふんだんに取り入れている。逸子とルカからは『花とアリス』を、ルカが歌う部分からは『スワロウテイル』を、人々が交錯していく脚本からは『Love Letter』を。それはダンスをするカットとか、ライブのシーンなんかからも感じ取れる。もしかして監督は集大成的な作品を目指していたのかもしれない。でもそれはあまり上手くいってなくて、妙なくらい間延びしてしまっているのだ。でもなぜか途中でダレたりせず観ていられた。

アイナ・ジ・エンドの歌は素晴らしかった。特徴的な彼女の歌声はきっと多くの人にとどくだろう。でもこれだけ時間をかけながら、「歌によって人の心は救われるのか」という答えが明確にされていないし、明確にされないのは上記した構成によって「彷徨うこと」を描こうとしたからでもあって、このふたつの要素の喰い合わせの悪さがちぐはぐな印象になっていたように思う。